岡山県里庄町にある「仁科芳雄博士生家」は、「日本の原子物理学の父」として知られる科学者 仁科芳雄博士が高等小学校を卒業する14歳まで過ごしたところです。江戸中期から後期の備中南部の庄屋建築の様式を踏襲しており、その屋敷構えは、地方の名家らしい風格を備えています。全国的にも江戸時代の庄屋屋敷で現存するものは少なく、建築史の上からも重要な建築物です。また、生家は里庄町の史跡として指定されています。
里庄町は、博士の親族から昭和53年(1978年)にこの屋敷を譲り受け、修復し、昭和57年(1982年)から一般公開しています。博士の遺徳を顕彰し、長く後世に伝え、子どもたちの励みにするとともに、少しでも科学の進展に寄与できればと願っています。
里庄町では、博士の顕彰事業として、ロボットコンテスト、理化学研究所里庄セミナー、博士生誕日記念科学講演会、中学生国内派遣研修、仁科賞及び仁科芳雄賞の授与式を行っています。これらの事業を通じて、博士が生前大切にしていた「環境は人を創り、人は環境を創る」という理念を子どもたちに伝えています。
生家は、昭和の修復から40年以上が経過して傷みが大きくなり、全面的な修復が必要となりました。修復には、江戸時代の庄屋建築の技法を用いて、その風格を損なうことなく行わなければなりません。
博士の生家を次世代に引き継ぎ、その理念を継承するために、皆様のご支援・ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
【リーフレット】仁科芳雄博士生家修復プロジェクト [PDFファイル/4.16MB]
寄附受付サイト:ふるなびクラウドファンディング
目標寄付額:500,000,000円
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仁科芳雄博士(1890~1951年)は、「日本の原子物理学の父」として知られる岡山県里庄町が誇る偉人です。理化学研究所に入所後、ヨーロッパに留学し、デンマークではノーベル賞受賞者で量子論の創始者ニールス・ボーア博士に師事して5年間指導を受けました。大正14年(1925年)には「量子力学」が完成し、博士はその誕生に立ち会った唯一の日本人となりました。昭和3年(1928年)には、現在もエックス線天文学などで用いられる「クライン・仁科の公式」を導出し、物理学の歴史に名を残しました。同年、帰国後は理化学研究所で仁科研究室を主宰して、昭和12年(1937年)には日本初のサイクロトロンを完成させるなど、現代物理学研究の一大拠点を創り、ノーベル賞受賞者である湯川秀樹博士や朝永振一郎博士をはじめ、数多くの俊英を育てました。
仁科博士の研究は、理化学研究所仁科加速器科学研究センターに受け継がれています。日本初となる新元素ニホニウムの発見は、平成27年(2015年)に仁科加速器科学研究センターで成し遂げた業績です。
令和7年(2025年)は、博士が日本に広めた現代物理学の金字塔「量子力学」の完成から100年の節目を迎えます。クラウドファンディングを通じて、博士の偉業について知っていただく機会になればと思います。
仁科家は庄屋として、浜中村(現・浅口郡里庄町大字浜中)の村政を担っていました。博士の祖父・仁科存本(ありもと)は、天保13年(1842年)に摂津麻田藩の飛び地である浜中村・上新庄村・下新庄村・小田郡関戸村の4つの村の代官を任ぜられました。
博士は、存本の4男存正(ありまさ)と津禰(つね)の第8子として産まれ、多感な少年時代を生家で過ごしました。博士の勉強部屋は2階にあり、勉強の合間に西の窓から海を眺めていたと伝えられています。博士はしばしば「僕は岡山の田舎の出でね・・・」と思い出を語り、生家を心のふるさととして郷愁と愛着を持ち続けました。
敷地内には庭門があり、その瓦には仁科家の家紋が入っています。少年時代に身体を鍛えるために父や兄弟と行った冷水摩擦にちなんだ井戸も現存し、豊かに水を湛えています。
風呂場は、明治30年代頃に制作された瀬戸焼のタイル貼りで意匠を凝らしています。特に手書きのタイルは貴重なものです。
庭園には、冬の椿、早春の梅、陽春の桜(仁科蔵王)、新緑のさつきを経て初夏の泰山木などがあり、四季折々の風情を楽しむことができます。また、博士もその花を愛でたと伝わる梅の老木が今も残り、毎年3月第2日曜日には観梅会を開催しています。
また、博士の生誕日12月6日には、勉学で功績のあった里庄中学校3年生を対象とした仁科賞授与式を生家で開催しています。
木工事(軒廻り、床壁)
屋根工事(主屋、離れ、蔵、門)
※修復は、建築当時の技法を用いて行う予定です。